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藤村三良先生 

藤村三良先生からの 「お礼状」

 先週末はお世話になりました。震災直後は気持ちも落ち込み、また交通手段も断たれたこともあって、これでもう「臨床歯科」とはお別れかな?と、残念なような、また逆にホッとしたような気持ちにもなったのですが、何とか25回目の出席が出来ました。久しぶりの歯科キチガイの空気を吸い、若干自分はマイノーリティの区分けをされることが分かっても(謎)、楽しい時間でまたまた飲み過ぎ、フラフラになって帰宅しました。
 懇親会では、せっかく壇上で発言の機会をいただいたのに、不慣れな場所に舞い上がってしまい、また、被害の多くない内陸の人間が震災を語ることも憚られ、まともなご挨拶が出来ませんでした。しかしその後の懇親会の席などで、多くの方に震災の様子を聞かれました。ここはやはりお伝えしなければと思い直し、いつものパソコンの前から改めてお礼と、県の現状を述べさせていただきます。
あくまで内陸の人間からの文章なので、被災された方々からすれば、そこは違うと思われるところも多々あると思いますがお許し下さい。また福島県は未だ災害が進行中という状態で、心からお見舞い申し上げるとともに、一日も早い解決を祈念いたします。

 地震は間違いなく過去経験した中でも最大の揺れでしかも長時間でした。CR充填の研磨が残っていた患者さんを待合室に誘導したところで電気が止まりました。
私の診療室は10階建てのマンションの1階で、道路には多くの人が建物から出てきていました。診療ができなくなりましたが電話が通じず患者さんにキャンセルの連絡をすることも出来ません。ただ信号も点いていないなどの異常事態、(診療中止は)分かるだろうとスタッフを帰宅させました。
 その後丸2日間は停電のままでした。寒い暗い調理ができないなどの問題は趣味のワカサギ釣りグッズで何とかなりましたが、テレビは見られず世間はどういう状態になっているのか分かりませんでした。事態の深刻さを知ったのは翌々日の午後で、それが返って精神衛生上良かったのかもしれません。知っていたらもっと不安な気持ちになっていたことでしょう。そのためか、唯一の情報源の地元ラジオのベテランアナウンサーは抑揚を押さえ、淡々と情報を伝えていました。ご近所のお知り合いが院長をなさっている県立高田病院では屋上に患者さんらが避難して居られました。寒さで屋上で火を焚いたそうですが、そのためヘリが近づけません。ラジオでそれを必死に伝えようとしますが届かず、それでもその晩屋上で数名がお亡くなりになりました。その一方で避難所でミルクが不足していると伝えるやいなや、多くのリスナーがミルクを持って避難所に向かいました。被災地の情報が不足しているのを聞いたドライバーは沿岸からの帰り、盛岡の放送局に立ち寄って話していくようになりました。ここが燃えている、ここは土砂崩れで道路が塞がっているのでここから回っていけばよい、また、被災地から20キロ以上歩いて公衆電話からラジオ局に電話して窮状を伝える方・・・。リスナーは停電の間ずっと情報を得ようと、また助け合えることはないのかとラジオに耳を傾けておりました。テレビだったら津波の映像をただ流すばかりで、ラジオのようにこれからどうしようという話に集中することはできなかったような気がしています。

 岩手県歯科医師会は身元確認に翌日から動き始めました。最初1週間は役員を中心に、その後は会員や岩手医大の協力で行われるようになりました。私が行けたのは震災後9日目の20日、陸前高田市のある小学校講堂内の安置所に10時半頃入りました。最初は5~60体だったご遺体も帰る4時頃には100を越えていました。初めての作業で緊張しましたがだんだん慣れて、その日歯科医師3名で37の歯科チャートを作成しました。辛かったのは探しに来られたご家族が、ご遺体を確認したときの嗚咽や響き渡る絶叫で、涙を堪えるのに必死でした。別な歯科医たちは、小さなお子さんのご遺体のチェックをしたとき不憫で涙が止まらなかったと言います。
 岩手県では学生時代のライターだったM先生、5年間同じグラウンドで毎日顔を合わせ、冗談を言いながら着替えをしていたラグビー部の1年先輩のS先生、前述の病院長の奥さんで、家内の尊敬する相談相手のIさん、親友のK、いなくなってしまいました。高校の一つ先輩、応援団だったK衆議院議員は奥さん、ご両親、ご長男を亡くされました。同級生の山本宮古市長はご家族が無事でしたが、ほぼ全財産を失い、自宅兼診療室は壁の一部分のみを残し消失。着の身着のままになりました。それでもそこから立ち上がろうとしている沿岸の人々の、信じられないような強さに驚いています。

 4月、母校の盛岡一高のPTAの役員をしている関係で、入学式に出席しました。新入生の中に数名、スケ番のような長いスカート、ダブダブの制服の女子、また短ラン(丈の短い学生服)の男子がいました。あとで聞くと被災した生徒で、制服を買うことが出来ず、支援物資、または誰かから戴いたものを着てきたので身体に合わないのだそうです。今年の新入生には家を流されたものが7名居り、希望に燃え内陸の高校に進んできた彼らのこれからの3年間に幸多かれと、そしてこの中から郷土を支えていく人材が出て欲しいと願わずにはいられませんでした。
 今朝の地元紙で、体育館を4つのパネルで区切って授業を行っている様子を伝えていました。他で音楽の授業があるときはうるさい中での授業です。別の地域の中学校内に丸ごと入っている中学校もあります。そして間借りしている生徒たちは、間借りを気にして休み時間にも校庭に出て行かないのだそうです。校舎は無事でも小学校、中学校に教室を貸していたり、校庭に仮設住宅が建ち並んでいる高校はクラブ活動ができません。そしてこれがいつまで続くのか誰も分かりません。
 地元の歯科医療機関は少しずつ回復してきています。地域の全歯科医療機関を失った地域でも、生き残った先生たちが集まって仮診療所を立ち上げ、収入を分け合います。ですからそこにこれから歯科医療ボランティアとして出向くことは、現地の先生たちの収入を減らすことにもなります。
 何かできることはないかとよく聞かれます。すぐ近所の集会場からは支援物資が集められ、毎日のように被災地に出向いていますが、今求められているのは手仕事でしかできない、慎重な瓦礫撤去でしょう。そこの家族にとって大切なものが残っているだけに機械でガシャガシャッと撤去することが出来ないのです。そのため撤去は半分も出来ていない地域もあります。
 70年以上も前に助けてくれたお返しだと、サッパ船100艘以上を届けてくれた函館の漁業関係者、船を全て流されたヨット部に数艇贈ってくれた匿名の方、毎日のようにこういう記事を読みます。また週末、被災地に向かうとき「道の駅」に寄ると、マイクロバスが数台停まっています。わざわざ自分で時間を作り、旅費を捻出してボランティアとして手伝いに来て下さる多くの方々がいます。胸が熱くなります。警察の方、自衛隊の方、他県の自治体職員の方、多くの方々に感謝する毎日です。

 臨床歯科の皆様には、義捐金など多くのご厚情を戴いておりますが、もしもう一つお願いできますならば、ぜひどしどし被災地のものをお買い上げいただきますでしょうか?御中元、お歳暮などカタログの中から選ぶものもあります。岩手の被災企業、また沿岸漁業はまだ再開に向かって歩き出したばかりです。もとより過疎化が進む地域に起きた自然災害、10年、イヤ20年以上かかるのでは?という意見が多くなってきています。さらなるお願いで恐縮ですが、長期間よろしくお願い申し上げます。
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